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マスコミの不作為による「国民の知る権利」の侵害 [私の主張]

 私が4月から赴任した、新しい勤務地は、厚生労働省まで電車で30分の副都心にある。そこで在京の同級生達と久しぶりに、飲むことになった。その際に、最近注目に値する「がん対策推進協議会」の動きについて、一般紙やテレビがなぜ報道しないのかが話題となった。インターネット上では、ちらほらと報道されているにもかかわらずである。
ロハス・メディカル
http://lohasmedical.jp/blog/2007/04/post_608.php

 報道関係者の友人によると、こういうことだ。

 いろいろとニュースが飛び交う新聞報道の現場において、”新たな兆し”といった、不確かな状態では報道機関は絶対に書かない。協議会の件でいえば、まだ患者会代表が腰砕けになる可能性もあるし、患者会が分裂するかもしれない。そのような状況で、”患者会代表による新たな民主主義のあるべき姿への活動”などと取り上げて、情勢が変わったら誤報でないまでも報道デスクの勇み足と上層部からみなされて昇進に響く、それが理由だ。

 つまり、”患者会代表の活動が、確実となるまでは記事は書かない。”ということだ。

 何のことはない、報道機関は、真実の報道をする以前に患者会の活動を値踏みしているのだ。そこには、「相手の力量を見定める」のではなく、「いかに自分たちがヘマをしでかさないか」、そのあたりが判断基準になってしまっている。今日の報道機関は・・・・。しかし、それはおかしいのではないか。

 報道機関がいつも高飛車で、「我々は正しく、間違ってはいない」と、声高に叫び、よほどのことがない限り、訂正しないのは、いつも "後だし じゃんけん" しかしておらず、だからいつも負けないし、常に正しい。そりゃ当たり前でしょう!

 我々外科医は、いつも診療上の不確実性のリスクを負いながら、その時々で決断を迫られている。特に、瀕死の救急患者などは、なにかをしなければ間違いなく死ぬ。それをなんとかして、多くの人を死の淵から引っ張り戻しているのである。それでも結果が悪ければ、報道機関は我々をたたきまくる。非常に姑息なずるいやり方だ。

 アスベストの際も、1年も前から住民に被害が発生してることを”十分な取材に基づき”知りながら、速やかに報道せず、報道機関内にとどめておいて、裁判の判決がでるなどの社会の関心と気運が盛り上がる機会を見て大々的に報道する。

 あたかも、個人投資家が手持ちの株を、いかに高値で売り抜けるか社会の動向を伺うように、自分のタマをいかにうまいタイミングで出すか、それだけしか考えていない。その間に何人の人間が死んでいたとしても、報道した後に、企業や行政、警察の責任におっかぶせてしまえば、自分たちは事実の報道を意図的に隠し、遅らせたことを攻められることはまずない。

 報道機関は、なにかというと「国民の知る権利」振りかざす。また、行政や警察などの職務怠慢による事件の発生、対応の遅れによる被害の拡大については、鬼の首を取ったかのように袋だたきにする。しかし、結局、彼らも同じ穴のムジナである。

 いや、それを自覚しておらず、入手した情報を隠し、一旦それを報道した後は、他人ばかりを責め立てて、対応の遅れ、被害の拡大と騒いでいるだけに、より罪は深い。

 「報道の自由」は日本国憲法第21条によって保障され、表現の自由のうちでも特に重要なものとされる。なぜならば、報道機関による報道は「国民の知る権利」を充足させるのに重要な役割を果たすからである。

 もし、報道機関が、「国民の知る権利」を二の次にして、自社の販売部数や視聴率の向上のために「真実の報道を速やかに行う責務」を果たさないとすると、国民の信頼を失い、結果として「報道の自由」は次第にその範囲を狭められて行くであろう。

 従って、報道機関も、記者が知り得た段階で、きちんと報道しなかったことにより、被害が拡大した場合は、適切な報道をする義務を怠り、「被害を拡大させた」として社会的な責任を取るべきなのだ。そのためには、いつその事実を知ったのか、その時期だけは社会的な責任として、報道機関の透明性を確保するために公開するべきである。

 それすらしないとすると、報道機関は「国民の知る権利」を、報道しなかったということで、事実上「国民の知る権利」を侵害している可能性が高い。 報道機関が盛んに使う ”不作為” とは、そういうことだ。それすらも彼らは、我田引水でわかっていない。

 ここ数年のストーカー殺人事件、アスベスト報道、企業の製品の不良による事故などに対して、迅速に対応しなかったことを弾劾する報道の論理をそのまま報道機関にあてはめれば、記者が取材しつづけながら一年間も報道しなかった報道機関の姿勢はいかがなものか。その間に報道すれば助かる命もあったのではないか。

 報道機関が知り得た段階で、不確実ながら、その危険性があることを速やかに報道することで、「国民の知る権利」を確保するとともに、被害の拡大を防げ得たかもしれないという、社会的、道義的な責任、透明性を確保する責務は報道機関にもあることはいうまでもない。

 ニュースソースを保護しながらやる方法は、やる気にさえなれば、いくらでもできるのだ。問題はやる気。

 現状は「どんなに、危険な事件が起きるかもしれないけれど、事件が起きるまでは記事は書けません。実際にあなたが拳銃で撃たれたら記事を書きましょう。その時は派手に煽って叩いてあげますから・・・・。この”告発文”も、その時までは引き出しに入れておきますよ。」と、まあこういうことらしい。

 国民の危険を察知しながら、自分が負うべきリスクを極力回避して、安全なところで評論ばかりしている今の報道機関には、すでにジャーナリズムを名乗る資格はない。このような”安全なところでしか勝負しない”という、ずる賢い姿勢が、結局は”やらせ報道”を生み出すという、今日の報道機関における不正の温床になっいる。


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